12、勤務評定反対闘争
1957年文部省は教職員の勤務評定に関する政令を施行した.愛媛県は全国に先がけて実施、ついで東京も実施。和歌山でも58年に入ると県教委は勤評実施の様子が出てきた。私は分会役員を数班に分け、各郡市ごとに父母集会を開き勤評の善悪を訴えた。同年6月3日、県教委は抜き打ちに「勤務評定実施規則と評定書内容」を決定した。決定理由として教育振興を掲げていた。私は評定書内容を検討して校長と共に県教委指導課長に面会を申し込んだ.「寮母の評定書が示されていないのは何故か」「文部省の案にないからだ」「県教委は和歌山県の教育に責任を持たねばならないのに文部省試案になければ作らないつもりか」「否、作る。寮母の勤務評定書は養護数論の評定書を準用せよ」「県教委は養護教諭と寮母の業務をどのように考えているのか」「それは異なると知っているが準用できないこともなかろう」「赤チン塗るのと、生活指導を混同するのか」「君たちは評定書を提出しないつもりで交渉にきたのか」「教育振興に役立つものならぱ提出するが暖味な内容では教育振興にならない、だから真剣に内容を教えてもらいにきているのだ。本当に特殊教育振興に役立つと理解したら提出するが、指導課が説明できないインチキな物ならば提出拒否も己むを得まい」と交渉を打ち切り職場に帰り交渉内容をありのままに報告した。職場全員「県教委は無茶苦茶だ」と認識した。3月24日父母集会を開催「6月5日教職員は一斉休暇闘争に突入する。父母の皆さん児童生徒を連れてお帰り下さい。子供が校内にいると校長は教員に授業しなさいと命令しなければならないが、一人も校内にいなければ校長も授業を命じることが出来ません。襲学校では校長以下一致して子供達を守るため戦っているのです」とお願いをした。父母の中に地教委の教育委員二名、地教委の教育長一名がおり、それぞれ立ち上がり「勤務評定は国の政策として実施したものだ。国の政策に反対することに協力はできない、同盟休校反対」と反対演説を開始した。その時一人の母親が立ち上がり「あのねえおっさん!あんたはん、どこか地教委の偉いさんか知らんけど聾学校の先生達が今まで子供達のためを思って県知事や県教委に交渉した際あんた来たことあるのけ?平素は奥さんを参加させといて、今日だけ偉そうに反対とはなんちゆうことや。通学バス獲得の時も運動場獲得の時も、わてらあんたの顔を見たことないぜ」と叫んだ。「そうやそや」の声と共に満場の拍手が沸いた。私は地教委の教育長と称する男の子どもの担任と共に「君のお父さんだけ子供を連れて帰ることに反対している。5日から三日間君一人学校に残るがそれで良いか。お父さんに「僕一人残るの嫌やと足へしがみつきなさい」といった。子供は正直です。すぐ父親にしがみついて「残るの嫌や」と泣き出した。地教委の教育長は「市町村の先生達には勤評は必要だが、聾学校の先生達には必要ない」と理屈に合わないことを言って我が子を逮れて帰った。和教組の三、三、四割の一斉休暇戦術には十制、十制、十制の休暇戦術を敢行した。その直後、教育予算増額の陳情に知事を訪問した。知事は私たちが着席すると同時に大声で「俺は今まで障害児教育を重視して少しでも多く盲聾学校へ予算を回してきた。然るに今回の勤評提出に県立学校で二校だけ未提出というではないか。今後予算は絶対にやらぬからそう思え。勤評未提出とは俺の政治生命に関わるぞ」と怒り出した。そこで間髪を入れず私は「知事さん、お伺いします。私たちは勤評は教育振興めため文部省が実施したと承ってきましたが、今、承りますと勤評が知事の政冶生命と関わるとのこと、どちらが本当でどちらがインチキかご返答をお願いします」と質問した。知事は急所を突かれて「否、今のは言い過ぎだ。勤評は教育振興のため実施したのだ。評定書を出さぬとはけしからん」「いえ決して出さないと言ってはおりません。勤評には多くの欠陥がありますので、どう書げば良いのですかと何回も県教委の指導課へ質問に伺ってきましたが、未だまともな回答がありません。嘘だと思われるなら指導課長にどう指導したか間い合わせて下さい」「そうか、指導課が説明出来なかったのか」「そうですよ」「教育委員会は何をしている。して、君たちは何を質問したのかねえ」「盲襲学校には生活指導を担当している寮母が居ります.学校で教科を教えている教員だけ勤務評定をして障害児にとって最も重要な生活指導を行なっている寮母の評定書がないのです。それで教育振興といわれても私たちは納得出来ません.指導課長は寮母の評定書ばどうしますかと質問したら養護教諭の評定書を準用しておけとの答でした。怪我の手当と生活指導を混同されては障害児は可愛そうです。二回目に何うと「ええい、うるさい。どうでも良いから勝手に書け」という返事です.私たちは教育振興に役立てると言うので評定書の内容にも真剣に取り組んでいます。それをどうでも良いから勝手に書けでは絶対に提出出来ません」「わかった。俺から教委を叱っておく。ところで今日は何を陳情にきたのだ?」「知事さん、では要求書の説明をさせていただきます1は寄宿舎の環境整備です。両校とも寄宿舎の周囲の水はけが悪いので汚水が溜まり、臭くて寄宿舎で生活できません。排水路を改造していただきたいのです。
2は便所の子供たちが立つところに横に木を打ち付けてほしいのです。先日も盲児が足場がわからず便所の中へ足を入れ大変でした。3は盲学校の廊下の板を修繕してほしいのです。廊下は走るなと指導していますが、先日も生徒が廊下板を踏み破って足を捻挫してしまいました.老朽校舎ですから、部分的で結構です。せめて生徒が怪我をしないで程度に修繕して下さい。4は、………」「わかった県教委から接接担当者を派遣するから良く相談して子供たちに怪我や病気のないように気をつけて呉給え」「承知いたしました本日は色々要求いたしましたが予算がないといわずに予算は知事さんが良心に従い順次査定されるものですから、よろしくお額いいたします」と言って引き揚げた。
翌年の教育予算を見ると小中学校費で1・2%の増額、高等学校費で1・5%増額。盲聾学校費は1・8%増額となっていた。
孫子にいわく「攻撃は最大の防御なり」勤評は自民党と政府が画策した不当文教政策であったが、これを逆に予算獲得に利用したのである。職場会で「勤謀反対一斉休暇戦術を提案した時、男子教員で一名スト反対を唱えた男がいた。彼は「生長の家」信者で常に私に反対して来た。彼が囲碁を好きなのを知って私は自費で碁盤と碁石を購入し、昼食休憩時に宿直室て碁を戦わせた.私と彼は同じ位の腕前て常に「互い先」で打った。碁の最中に勤評反対の理由を説明したが、彼も強情で容易に了承しなかった。時には勝つ勝負を負けてやり説得した。彼は最後に、「職場が一斉休暇に入るのなら自分は年休で休む」と言っ協力してくれた。父母の同盟休校は効果的で、当日県教委は主事に命じてろう学校の現状調査に来た。主事は児童生徒が一名も居ないことを確認、「これでは校長も授業をせよと命令できない」と復命した。小中学校で良心的な校長が数名「勤評不提出jを理由に行政処分を受けたが、盲襲二校長は処分を免れた。孫子に「天ノ時八地ノ利ニ不如。地ノ利ハ人ノ和ニ不如.」とある。
13、京屋事件
1958年6月3日県教委は抜き打ちに勤務評定実施規則を制定した。和教組は事前交渉て「勤評は双方話し合いで決めよう」との言質をとっていたので、「まさか抜打ち決定はしないだろう」と思っていた。しかし県教委は約束を破棄して制定したのである。怒った四者共闘は、当日から「撤回せよ」と交渉を始めた。4日も数百人が教育庁舎につめかけた。夜に入った。教委側は西山委員一人委員会室に座り、抗議団の抗議にも質問にも黙秘を続けた。他の教育委員も事務局も誰一人出勤しない。
共開会議も西山委員もだんまりが続いた。私は「局面打開の妙案はないか」と考えた。「よし課長連中を連れてきて攻撃しよう」と北条書記長に相談したが「課長を連れてきても局面打開にはならぬ」と取り上げない。致し方なく和歌山市支部の青年部と相談して「課長達をさがしし出そう」と二班を編成した。一班は和歌浦方面の旅館を捜索し、一班は市内の旅館を捜索することにした。私は市内を担当した。どこから着手して良いやらトンと見当が付かない。このとき私の頭にピンと来たのは「県教委は和歌山銀行の地下会議室を良く使用する」と言うことであった。 この年、3月私は県教委学事課から呼び出しを受けた。用件は「山奥の中学校へ異動せよ」ということであった.「聾学校から知事や県教委に要求を出す張本人は永田だ」として「永田をどこか遠方の学校へ追い出せ」と教育長の命令を受けた鍋島学事課長は、井上課長補佐と大浦人事係長に命じて異動発令を出そうとしていた。
私は薄々「人事攻撃が来るな」と直感していたので「地方教育行政の組織及び運営に関する法律[を勉強していた。同法第48条に「市町村立学校教職員を他の市町村立学校教職員に異動させる場合は本人の承諸を要する」とあり同条第二項に「但し同一県内に限り本人の承諾を省略することを得」とあるのを捜し出した。この条項は市町村立学校相互間の人事異動に付いて規定しているが、県立学校から市町村立学校への異動は常に本人の承諾を要すると解釈すべきだと考えた。それで印鑑を持ち教育庁へ出かけた。案の定、山奥へ転出を申し渡された。印鑑を見せびらかせ「これを押したら百年目、決して押しませんよ」と開き直った。大浦も流石人事係長、他行法の条文を知っていた。二三日後再度の呼出しを受けた。教育庁ではなく「和歌山銀行地下室へ来い」とあった。そこへ行くと「そこへ記名、捺印して下さい」と岩田人事係が「承諸書」用紙を広げた。印鑑は持参していたが捺印をせず紙を返上した。「やはり駄目ですか」「捺印したら百年目ですからねえ」と印鑑を見せびらかしながら拒否した。その年の人事異動表には、私の名前は載らなかった。このとき県教委と和歌山銀行地下会議室の関係を知った。
6月4日夜10時すぎ、(*「和教時報」によると、5月27日)私は和歌山銀行を訪ねた。玄関は勿論閉まっていた。裏へ回ると潜り戸が開いていた。潜り戸を潜ったところで守衛に「そこから入ってはいけません」と阻止された。「地下の会議室にうちの課長達来ているでしょう。一寸逢いたいのです。」というと、守衛は私を教育委員会の誰かと錯覚して「教育庁の課長さん達ならさっきまで地下におられましたが、ついさっきここから出て行かれましたよ。」
「遠くへ行っていない近くだ」と思い、ふと銀行の裏門の斜め右を見た。「京屋旅館」という看板が目に入った。この族館は自民党代議士正司氏の実姉が経営している旅館だ。県議委の課長たちが隠れるのに格好の場所である。「今晩わ」と玄関の格子を明けて中にはいると女中が出てきた。「うちの課長達泊めてもらっているでしよう」というと県教委教の職員とでも思ったのか「はいお泊りいただいております」「誰でもいいから一人呼び出しで下さい」「解かりました」と女中は二階へ上がった。
出てきたのは衣笠保健体育課長。階段の中程で私の姿を見るや「何ですか君は」と七面鳥のように顔色を変えながら叫んだ。「課長何をしている!西山委員が一人で応対しているのに」と怒鳴りつけるとあわてで衣笠課長は二階へ舞い戻った。
「待てよここで頑張っても課長全員出てきたら私一人では捕えようがない』と思い、旅館をでて公衆電話を探した。銀行の前に公衆電話があったのを思い出したが、そこまで行く時間がない。ちょうどそこへ和歌山支部青年部の先生が一人通りかかった。「そこの京屋旅館に県教委の課長連が隠れている。私一人では取り逃がすので応援を呼んで下さい。県教委に電話して四者共間会議の者を呼び出し、直ちに本町二丁目・和歌山銀行の裏通りの京屋旅館へ二三十人応援頼むと言ってドさい」と頼んだ。
再び京屋に戻ると課長違が玄関の式台まで出てきて将に靴をはこうとしていた。私は大声で「こら待てえ」と叫びながら大手を拡げた。課長達はあわてて靴を脱ぐと、また二階へ上がっていった.暫くするとさっきの青年部の先生も釆てくれた。二人でも心細い。「早く来い、早く来い応援団よ」と神仏に析った。半時間後応接団が駆けつけた。百人で旅館の前後を取り囲みlもう逃がすものか」と思い一人で旅館に入った。表階段の他に裏階段がある。裏階段を上ったところで女将が出てきた。
「もしもし、あなた、住居不法侵入で警察へ訴えますよ」という。「訴えるなら訴えなさい。ホテルや旅館の廊下は一般道路と同じで誰でも出入り出来ることになっているのを知らないのか。旅館の経営者はそれくらい勉強しておけ」と怒鳴りつけた。女将は沈黙して引き下がった。私はすぐ二階の部屋を全部調べ上げ、押入の中まで点検したが、どこへ消えたのか課長達、誰一人発見できなかった。外に出ると応接団がひしめいている。ふと見ると東屋の左隣に歯医者がある。旅館の表裏を見張っていたのだから他へ逃げられない。誰かが「永田先生あの歯医者は京屋の女将の弟が経営しているのですよ」と教えてくれた。「ははん、課長達は両家の間の潜り戸を潜り歯医者に逃げたなあ』と思い歯痛の急患を夫婦二組を編成、歯医者の玄関を「あ痛い痛い。急患です。先生診て下さい」とノックした。一組は甲へ入れたが歯医者もこちらの作戦を見破り、二組目ば拒否された。
私は県庁記者クラブへ「おもしろい取材ですよ。本町二丁目裏通りの京屋まで来て下さい」と電話した。幹事の毎日新聞和歌山支局員が応対にでた。「あなたは誰ですか」「出水君の同級で永田といいます。和教組執行委員です。「わかりまました。各社に連絡してすぐ伺います」で電話が切れた。出水とは私ど箕島商業学校同期で、その頃毎日新聞和歌山支局に勤務していた男である。待つ間もなく各新聞者の記者が写真班を運れて京屋に到着した。玄関式台の前には数足の靴が雑然と脱き措ててあるてある。カメラは一斉に靴を写した。翌日の新聞各紙全国版一面トップに五段抜きで「屋根を伝って逃げた県教委」と題して写真が掲載された。教育委員会の面白丸損れである。共闘会議は交渉を再開した。 軍隊で学んだ作戦要務令綱領に「第九 敵ノ意表ニ出ヅルハ機ヲ制シ勝ヲ得ルノ要道ナリ。故ニ旺盛ナル企図心ト追随ヲ許サザル創意ト神速ナル機動トヲ以テ敵ニ臨ミ常ニ主導ノ位置ニ立チ全軍相戒メテ厳ニ我軍ノ企図ヲ秘匿シ困難ナル地形及天候ヲモ克服シ疾風迅雷敵ヲシテ之ニ対応スルノ策ナカラシムルコト緊要ナリ」とあったのを思い出した作戦であった。「第十一 戦闘ニ於テハ百事簡単ニシテ且精錬ナルモノ能ク成功ヲ期シ得ベシ。典令ハ此ノ趣旨ニ基キ軍隊訓練上主要ナル原則、法則及制式ヲ示スモノニシテ之カ運用ノ妙ハーニ其ノ人ニ存ス。固ヨリ妄リニ典則ニ乖(そむく)ベカラズ。又之ニ拘泥シテ実効ヲ誤ルベカラズ。宜シク工夫ヲ積ミ創意ニ勉メ以テ千差万別ノ状況ニ処シ之ヲ活用スベシ
{京屋事件ハ将ニ典則応用ノ勝利ナリ}