和歌山県における教員のレッド・パージ
楠本一郎(元和歌山県民間教育サークル連絡協議会事務局長)
レッド・パージとは
レッド・パージとは、一九四九年から五一年にかけて、日本共産党員あるいは同調者というだけで行われた解雇事件である。犠牲になった人は、全国で四万人と言われている。日本憲法と労働法に明確に違反するレッド・パージは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)という権力の後ろ盾なしには、まったく不可能なことであった。
五〇年六月六日付マッカーサー書簡による共産党中央委員会の追放などはGHQの責任に属するが、一般のレッド・パージは、GHQ、日本政府、最高裁、労働委員会、企業経営者の共同責任で行われたものである。レッド・パージは、思想・信条そのものを処罰の対象として裁くものあり、戦前の治安維持法体制の戦後における復活ともいうべき、深刻な人権侵害である。被害回復の措置が求められる。(明神勲『戦後史の汚点レッド・パージ』二〇一三年)
田畑正宏さんの場合
まず、当時県立星林高校教諭であった田畑正宏さんの場合をみてみよう。
「一九四九年十月十七日はちょうど遠足の日であった。田畑氏が登校すると、奥谷校長から、君は本日より教職処分になり、一年たてば自動的に免職になると通告された。これは村上教育長の指示によるものであるというので、校長と二人で教育庁へ行くことになった。まず和教組の協力を求めに行ったところ、岩尾委員長は『共産党は首を切られるのは当たり前、わしは個人的に共産主義とたたかう』と、まるで喧嘩腰で話にならなかった。
そこで校長と二人で教育庁に行き、田畑氏は村上教育長に理由は何かと抗議。教育長は理由は教科の組み立てが階級的、民主主義科学者協会に入っている、その金曜講座に生徒を誘った、前進座の入場券を売った、などをあげ『共産主義者が教職にあることは教育上ふさわしくない』というだけで結論が出ず、田畑氏は最後に『何が正義か歴史が証明する』と言って引き上げた。そのあと、田畑氏は教室の黒板に告別の辞を書いて学校を去った」(茂野嵩『不死鳥──占領下和歌山の労働運動年表・覚え書』一九九一年)
和歌山県で教員のレッド・パージはどう行われたか
レッド・パージにいたる経過をたどる。
一九四九年七月十九日 占領軍CIEの高官イールズ、新潟大学開学式で「共産主義教授の排除」を勧告。
七月二二日 政府、閣議で公務員のレッド・パージの方針決定。
七月末 文部省、各都道府県教委に教員の所属政党調査を指示。
八月 和歌山県教委、教員の所属政党を調査。
九月七、八日 極秘の全国都道府県教育長会議。
十月十三日 和歌山県教委、教員七名(小二、中四、高一)の辞職勧告。
十月十七日 和歌山県教委、辞職拒否の五教員に休職処分。
この時期のことを、和歌山県初代教育長の村上五郎さんは次のように書いている。
「レッド・パージがあったのはこの頃だったろうか。あの頃は天野貞祐さんが文部大臣だったかと思う。東京で文部省主導の教育長会議があり、その会議は珍しく秘密会議で、会議の内容はアメリカの占領軍から隠密の示唆があって、各府県で共産党に関与している教職員を追放することになったのである。私はあまり犠牲者を出したくなかったので消極的であった。しかし、何ら協力せぬわけにはいかなかったので、その提案を教育委員会にもかけ、結局七人ばかりの教員を槍玉にかけることとなった。……
このパージの処理で初めて、私はこの時CICと名づける占領軍部隊に出かけていった。……私はその隊長に会ってパージについて状況報告を行うとともに、あわせて具体的なパージ案を提示したのである。向うは別にそれに対して可否を言わず、ただじっとそれを聞いていた。その態度は巧妙だが、不気味なものであった」(『ある教育長の回想』一九八一年)
教員(幼・小・中・高)のレッド・パージは高知県をのぞく全都道府県で行われ、犠牲者約一二〇〇人に上った。東京の人数が最高で二四六人、ついで大阪の九八人。東京は教職員総数に対して一〇〇人に一人、大阪は二〇〇人に一人の割合であった。和歌山での七人は、一〇〇〇人に一人であった。(明神勲「教職員レッド・パージ概要ノート」(その6)『北海道教育大学紀要(教育科学編)第55巻』)
アメリカ軍や官憲、右翼の執拗な策動がつづく
見逃すことができないのは、文部省──県教委のルートでのレッド・パージ以外にも、いろんな策動があったことである。
藤田五与は書いている。「(一九四九年頃)右翼の親分が白浜小学校の講堂の共産党の演説会にのりこんできて『この学校にも、アカ教師が二人ある』と叫んだことがあった」(「和歌山県における民間教育運動史の試み─その一」『和歌山の教育』第三号)
これは、日本民主主義教育協会員の名簿が占領軍CIEにおさえられ、それが全国に連絡され、策動の源になったとみられる。それを実行した人物に、東京軍政部教育課長ポール・T・デュッペルがあった。デュッペルは(イールズ声明以前から、)教職員のレッド・パージを画策していた。国分一太郎氏は次のように書いている。
「デュッペル大尉が、私たちの民教協にやってきては会員名簿をうばっていきました。この名簿は全国に通報され、レッド・パージの台本になったのです」(「この四〇年」『石をもて追われるごとく』一九五六年)
この頃の状況を表している文章がある。和歌山市内での女子中学生の体験である。
「レッド・パージの頃であったか。私の記憶では家の家宅捜査を二度受けている。捜査令状をもってきた警察に激しく怒り、『帰れ!』と言っている父を、私は玄関の横の階段下から息をつめるようにして見つづけていた。彼らは令状を楯にとって家にあがりこみ、私の部屋までやってきてトルストイの『戦争と平和』を、うさんくさげに手にとった。翌朝、電車通りの電柱には『北川教授の家、家宅捜査される』と言うビラガベタベタはりつけられていた」(松井紀子「父の歩んだ戦後の道のり」『命燃えて 北川宗蔵生誕一〇〇年』二〇〇四年)
藤田は、後年次のように語った。「……レッド・パージが始まって……加藤顕雄さんと言う教育長がやってきて『実は、君らの首を切れと言ってきている』と話してくれたこともあります」そして、別のところであるが「注意だけですんだのは、多分」として、次の四点をあげている。
① 共産党員でなかったこと、
② 駆け出しの旧制中学校出の助教諭であったこと、
③ 白浜町に公選制の教育委員会が成立していたこと、
④ 県教委の村上教育長がレッド・パージに必死で抵抗したこと。
レッド・パージに対する抵抗闘争
レッド・パージの嵐が全国的に吹きすさぶ中で、二つの分野で抵抗の闘いがあり、成果を収めた。一つは、銀行業界であった。銀行経営者に「該当者なし」を確約させるたたかいをすすめた結果、犠牲者を出したのは四銀行に留まった。(全銀連編『銀行労働運動史』一九八二年)
もう一つは、大学教員の場合であった。大学教員の追放を意図するイールズ声明に対して、日本学術会議、全国大学教授連合、民主主義科学者協会などの学術団体は、「学問の自由」擁護の観点から批判的見解を表明した。また、南原繁東大総長の批判的見解の表明は、全国の大学の動向と世論に強い影響を与えた。そして、全学連(全日本学生自治会総連合)は「ノー・モア・イールズ、ノー・モア・ヒロシマ」を合言葉に強力な運動を展開し、東北大(五〇・五・四)と北大(五〇・五・十六)では講演を中止させるまでに至った。大学教員のレッド・パージは阻止された。(明神・前掲書、二〇一三年)
レッド・パージ反対は、私の若い頃の体験でもある。
私が大学に入学した一九五〇年は、現実の日本の中でさまざまな出来事が引き起こされた時期であった。
六月六日GHQマッカーサーは、日本共産党中央委員二四人の公職追放を指令した。六月四日投票で行われた参議院選挙で当選した共産党議員三人のうちの一人も、即刻議席を奪われた。
反イールズ闘争。CIE(占領軍の民間情報教育局)の高官イールズという人物が、前述のように、一九四九年七月の新潟大学を皮切りに、各地の大学で反共講演に回っていたが、前述のように、東北大学と北海道大学で学生によって阻止されるという事件が起こった。私たちの大阪大学教養学部(南校)でも、一九五〇年六月頃レッド・パージ反対で学生大会が開かれた。
労働者のレッド・パージへの抗議。一九五〇年秋頃の夕刻、大学の近くにあった運送会社での労働者のレッド・パージに抗議する行動に参加した。その会社のカウンターのところにいたところ、奥から突如警官隊が現れ、追い出されてしまった。私たちに後ろから投げられる棍棒の音が道路にカランコロンと響くなか、いわば「命からがら」逃げて近くの電車に飛び乗り帰宅した。
日弁連が二度の勧告「この人権侵害の被害回復の措置をとれ」
レッド・パージが日本社会に残した負の遺産は大きい。第一、多数の犠牲者、深刻な継続的な被害。第二、反共主義的意識の培養・再編・強化。第三、労働運動の変質と弱体化。第四、憲法体制から安保体制への「転轍手」(明神・前掲書、二〇一三年)
この不当な解雇について、日本弁護士連合会(日弁連)は二度にわたって、日本政府と最高裁に勧告を行ってきた。二〇一〇年の政府への勧告書には次のように述べられている。
「このような人権への侵害は、当時わが国が連合国最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の下にあり、GHQの指示や示唆があったとはいえ、いかなる状況下においても許されるものではないばかりでなく、当時から日本政府も自ら積極的にその遂行に関与し、又は支持して行われたものであると認められ、さらに一九五二年平和条約が発効した後は、日本政府として申立人の被害回復措置を容易に行うことができたにもかかわらず、今日までこれを放置してきたものであって、これらに対する国の責任は重い」