和歌山の民主教育の歴史
目次
5「戦後生活綴方教育実践史研究」 鈴木幹夫
新しいページに投稿を試みるがブログの不具合、
ここに私の紹介文を張り付ける。論文そのものは、和歌山民研のへやにあります
紹介「戦後生活綴方教育実践史研究」
鈴木先生の研究との出会いは、「教育運動史研究部会」の副産物である。サークル一覧をつくったとき、東牟婁の増田弘先生にお送りした。
増田さんは「東牟婁では数年前までサークル連協をやってたよ」といって、いくつかのサークル名を挙げた後、「鈴木幹夫さんはよく調べてるけどと続けた。私は、鈴木幹夫さんってどんな人?」と聞き返して、表記の論文を紹介してもらったのだった。
鈴木幹夫氏は三重県の教員であった。論文の「あとがき」に「この著書は、三重大学大学院の修士論文として書いたものです。53歳になってからどうして大学院なのかと訊ねられることが度々ありました。」とかかれている。
論文執筆にあたっての研究・資料収集の経過が記されている。
「〈訪問した個人〉 藤島宏臣 深田勲 小野正巳・瑠璃 西祥 庵田婦志ゑ 宇佐川彰男 水上操 畑下忠夫 藪中勇 須川時夫 中川治 川合功一 尾嶝博」
東牟婁地方では、組合支部と連携して市町村単位の部会( 組合の地域組織)ごとに、子どもの」作文集を出していたようである。国語教育研究会の「みなみ」という作文集は、組合支部とも連携して数百部の発行部数をもつ。しかしそれで満足せず。「紀南作教」のような質を求めて、その後の「「にぐるまの会」につながる教育サークルにとりくむ。
私にとって初めて耳にすることも多い。楠本さんの「私的な教育運動の歴史」にもふれられていない。
そこで、鈴木論文から、楠本「私的な…歴史」との接点という部分を引用・紹介しておこう。
「……1951年に紀南作教が『教師の友』紀南グループとして結成された。
1949年郷里の西向中学校に勤務していた川合功一は、当時全盛であったコアカリキュラムの自主学習……にあきたらなくなっていた。そこで……矢川徳光に手紙を出し、紹介されたのが『教師の友』であった。1951年9月19日に和深第二小学校の藤田かずよから「県下の「教師の友」読者が結集しょう」との呼びかけのハガキがきた。真鍋清兵衛の勤務校に集まったのは、藤田かずよ、真鍋清兵衛、佐藤昭三、川合功一の4人であった。
(中略)このようにして発足し、活動を開始した「紀南作教」であるが、創立にかかわった中心の一人であった川合は、1953年12月12日に「くまの綴方の会」の発足にともない「紀南作教」を離れた。一方、1948年から発行していた新宮・東牟婁地域文集『みなみ』の編集責任者であった片山忠雄は、「日本作文の会」などの指導を受けながら、「くまの綴方の会」の設立に関わっていく。……」
「紀南作教」の分身として生まれた「くまの綴方の会」は、5年間、立派な機関誌を出し大きな役割を果たすが、日常のサークル活動はよわかったようである。そこで「古座川作文の会」が生まれる。
「1957年11月9日に「古座川作文の会」が、発足した。会員は、13名であった。…会の中心となったのが、藤島宏臣と深田勲であった。深田は当時のことを次のように回想している。「毎週土曜日の午後になると、…会場をまわり持ちで集まる。サークルの集いが楽しみでした。ガタガタの自転車に、ガリバン、鉄筆、原紙、原稿用紙など、ショウバイドウグをくくりつけてあつまりました。」(『子どもと歩む』にぐるまの会1984年8月・p23)
4 日教組第10次教研集会 方明あいさつ
中日人民は同じ戦線にたつ
日教組第10次教研での方明(ファンミン)あいさつは「方明の3原則」として先輩教師から聞いてきたが、私はその原文にお目にかかったことがなかった。このたび「教師の友」復刻版でみつけたものをここにアップする。
中国の人民公社、大躍進時代と毛沢東の指導を絶対化したものとして時代の制約がある。そのことを踏まえて研究の資料にしたい。
(雑賀 光夫)
3 永田先生の手記
「私の教職員組合運動と障害児教育」 (① ② ③ ④ ⑤ ⑥)
>和教組50年写真集P44
和教組第41回定期大会で特別発言する永田一視さん
2 「紀北教育」に育てられて
雑賀 光夫
1 和歌山県における教員のレッド・パージ 楠本 一郎